究極の利己主義へ!

2回にわたって”Open to Grace”をテーマに練習して来ました。

その中で,すべてのものにGraceが備わっているのに,それを認めにくい対象がありません?

とお話したのですが…
いったいなぜなんでしょうね?

いったい何がGraceを覆い隠してしまうんでしょう?
 
 
Graceが見出しにくくなってしまうのは,
利己的な期待や執着があるからなのではないかな~?と,わたしは思うわけです。

期待や執着があって,見返りを求めてしまうと,その通りにならないことによってイライラしたり非難したりしてしまう。

Graceが覆い隠されてしまう。
 
 
では,どうしたらいいのでしょうか?

期待や執着を手放すにはどうしたら?

『インテグラル・ヨーガ―パタンジャリのヨーガ・スートラ』(めるくまーる)の中で,スワミ・サッチダーナンダはこのように書かれています。
 
 
 
「欲望がなくなるなどということがあり得るのだろうか?

いや,実際にはそんなことはあり得ない。

心というものがそこにあるかぎり,
欲望することがそれの務めである…。

それは矛盾しているように見える。

それを解く鍵は,私的なあるいは利己的な動機のない欲望はどんな欲望でもあなたを縛らない,ということだ。

それはなぜだろう?

純粋で無私な欲望には,
期待というものがまったくない。

だから,結果がどう出ようとも,失望を知らないからだ。」(p.58)
 
 
 
ふんふん,なるほどね。
ま,話はわかるんだけどね~,

でも実際には「無私」なんてとても無理なんですけど~!
…て感じじゃないです?(笑)
 
 
でも,ちょっと待って。
まあ,この先もちょっと見てください↓
 
 
 
「他人の幸せを見れば,
自分も幸せな気分にならずにはいられない。

反対に,周囲のみんなを不幸にしてしまうようでは,自分自身も決して幸せであることはできない。

だから,少なくとも自分自身の幸せのために,他人に幸せをもたらそう。

もし本当に利己的になってやるというのなら,自分の平安の維持を目ざす中で,利己的になれ。

そういう利己性はちっとも悪くない,
誰にも害を及ぼさないのだから。

それどころか,それはやがて他者にも同じ平安をもたらしていくだろう。

もし心が,
『私は無私にはなれない。私はどうしても利己的であらずにはいられないのだ』
と言ったら,

『いいだろう。逆を極めよ。利己的であれ。自分自身の平安が乱れることを拒否するという一点において―』と言おう。」(p.37)
 
 
 
さらに,このようなことばも。
 
 
 
「一旦自分の個人的生に対する執着がなくなってしまえば,あなたは他人に奉仕することができるようになり,そうすることによって,自分自身はより楽しく,限りなく楽しくなる―。

だからときどき私は,
『無私な人間が一番利己的だ』
と言うのである。

それはなぜだろう?

その人は自分の平安と幸福を失いたくないと思っているからだ。」(p.57)
 
 
わたし自身は,この考え方に全面的に同意!

これが「正しい」というつもりはさらさらないんです。
 
 
でも,「究極の利己主義」って,

わたしも楽しい ⇔ あなたも楽しい

以外あり得ない!
と、わたし自身は考えています。

世に言う「自己チュー」って,とっても「中途ハンパな利己主義」なんじゃないかと思うんです。

どうせなら,「究極の自己チュー」を目ざしちゃえば,

わたしもhappy! ⇔ あなたもhappy!

なはず!!

わたしも,本気でこう考えています。
 
 
「無私は無理!」と思うからこそ,
このスーパー利己主義の道を行きます。

というわけで,今日も,自分の平安と幸福のために,yogaをし,伝え続けております。

ご一緒してくださるみなさま,
本当にありがとうございます!

[memo] peak poses
for basic:  Vasisthasana (legs together) or L-shaped handstand
for advanced: Vasisthasana