「十三夜のyoga×心理占星学コラボWS」 感想

去る2015年10月25日(日)nidaにて

「十三夜のyoga×心理占星学コラボワークショップ ~大きな流れに積極的に沿って生きるためのヒント」

を開催いたしました。

心理占星学を深め続けている友人、
まこ(池内 昌子)さんとのコラボWSは、8月に続き2回目となります。
 
 
テーマは「月」と「大きな流れ/サイクル」。

月の満ち欠けのように,私たちの人生にも大きな流れ/サイクルがあります。

その大きな流れ/サイクルは,
ときに,私たちを願わぬ方向に押し流して行くこともあります。

しかし同時に,常に私たちにはその流れの中でできることがあります。

つまり,流れに積極的に乗って行くこともできるということです。
 
 
というわけで、yogaと心理占星学ー両分野の知恵から,そのためのヒントをつかもう!という企画です。
 
 
私が担当するyogaクラスは,Anusara yogaの哲学に基づいた,slowでrelaxingなリストラティヴ。

その後,まこさんによる「月の星座」
「月のサイクル」にフォーカスした心理占星学のお話へ。

概説の後には,一人一人との個別のショートセッションも。(手作り月見だんごつき)
…という内容でした。
 
 
そして、このWSに参加してくださった方から、とっても感度の高い、すてきな感想を頂戴したので、本人のご了承をいただき、以下に引用させていただきます。

実はこのイベント、11月19日(木)夜にも再度行います!

ご興味がありましたら、ぜひご参加くださいませ!
 
 
 
***** 以下、いただいた感想です↓

ゆかり先生、こんにちは。

先日は、アヌサラヨガと心理占星学WS、ありがとうございました!

素敵な企画、いろいろにお心配り頂き、ありがとうございます。
お団子おいしかったです!

アヌサラヨガのインヴォケーションを今回初めて唱えました。
マントラの響き、まるで寺院に身を置いているような神聖な、それでいて瑞々しい気持ちになりました。

素敵な響きですね!

ヨガのパートでは、ゆったりとしたアーサナで呼吸が調って、 気持ちよく心と身体が緩みました~。

アジャストして頂き、とっても気持ちよかったです。
ありがとうございました(*^^*)

まこ先生の心理占星学のお話とショートセッションも、私にとっては新鮮な切り口のお話で、最初から最後までワクワクし通しでした。

まこさんの問いかけに、自分なりの言葉を探しながら答えたり、どういうことなのかなぁーと考えながら集中していく感じが、
なんだか「動く瞑想」の一種のような、
「対話する瞑想」みたいで面白かったです。

まこさんの言葉やホロスコープの分析を通して、まこさんにお話しながら自分を観察している感じで、ちょっと不思議な感覚だなぁと思いました。

座る瞑想の練習をしていると、自分の思考の癖が意識の底から浮かび上がってくる感じがしますが、まこさんとのセッションでは、自分の思考の癖を、遠くの空にうっすら見上げているみたいな感じで、

「あ、今まで気付いてなかったけど、そういう傾向あるなぁ。それも思考の癖だなぁ~」と後からきいてくる感じでした(笑)。

アーサナでアジャストして頂いて、自分の身体の使い方の癖に気付いてハッとする感じと共通する感じかも、とも思いました。

面白いです。

今回のWSに参加させて頂いて、
自分で「制限」と感じていることも、「恵み」のヴァリエーションなんだなぁ、という視点を学ぶことができたように思います。

アーサナの練習を通して経験していることだったり、ゆかり先生が最近ブログにアップされていた、ガネーシャのお話とも繋がるような気がして、訳もなく嬉しくなりました(*^^*)

たくさんの楽しい学びをありがとうございます(*^^*)

またよろしくお願いいたします。

(いやもう、こちらこそ!! 本当にありがとうございます!! yukari ॐ)

自分の「先生」を見つける(3)  自分の内側の先生

私は自分の「先生」を心から誇りに思います。

そして同時に、この「先生」たちは、さらにその先の

「真の先生」へと私を導いてくれているように感じています。

 
「真の先生」とは、私の内側、一番奥深くで常に輝いている存在です。

私たちの学びは全てこの「真の先生」に繋がるためだと、

yogaは教えてくれます。

 
!?

何言ってんの?

…ですよねえ(笑)

 
私もはじめはそう思っていました。

 
でも、何のためにyogaをするのか、yogaって何なのかを学ぶうちに、

少しずつですが進むべき方向が見え始めてきました。

そして、yogaは決してポーズの練習をする人のものではなく、

ましてや宗教でもなく、心の扱い方・つかい方を意識することで

いつでも誰にでもできるものだということ、生き方そのものが

yogaなのだということも。

 
さて、話を「先生」に戻しますと…

 
私は、以前、自分の「先生」に依存はしないと書きましたが、

実は、この「真の先生」のことを考えると、むしろ依存しようがないのです。

なぜなら、「真の先生」は自分の内側に向かわなくては見いだせないからです。

自分の外側の存在に寄っかかっても、何もならないのです。

 
あくまでも、内側奥深くにいる「真の先生」に結びついて行けるように、

「先生」に学ぶのですから。

 
こいつ変なこと言うな~、意味わかんないんですけどーと思った方は、

訳わからん点はサラッと流していただいてオッケー。

 
ただ、せっかく読んでくださったのですから(笑)、

これ一つくらいお土産になれば幸い。

 
それは、あなたを自分に依存させようとする人、

あなたに自分への見返りを求めてくる人を「先生」としてはいけません、

ということです。

(見抜くのが難しい場合も多いと思いますが。)

 
本当の「先生」は、まず自身が意識的/無意識的に「真の先生」を

追い求めながら、あなたを「真の先生」に導く手助けをしてくれる人。

 
少なくとも私自身は、そういう人だけが「先生」になり得ると

感じています。

 
そして、私もまたそういう「先生」たちの後ろについて行きながら、

同時に私の後に来る人たちのお手伝いをする「先生」に

なって行けるように努めるのです。

 
「先生」マラソン&リレーはこうして世代を超えてずーっと続いて行くんですねえ~。

 
「先生」の「先生」にも、そのまた「先生」にも、そのまた「先生」にも…

 
そして、 私たち全ての「真の先生」に感謝!

 
おわり

自分の「先生」を見つける(2)  すばらしい先生に学んだのなら

私は,これまで自分の「先生」方から本当にたくさんのものをいただいてきました。

(もちろん,家族や仲間たちからも。)

 
それはつまり,「他の人たちとシェアしなさい」と言われているのと

同義だと受け止めています。

 
もちろん,今の私には,自分の尊敬する「先生」たちのような

愛情深さも経験も知識もまだまだ備わっていないことはわかっています。

 
そして,「あの先生みたいにはとてもなれない」と以前の私だったら

考えていただろうと思います。

 
でも,今は少し違います。

自分の「先生」のように「なれるかどうか」というのではなく,

「ならなくてはならない」と思うのです。

 
「謙遜」は「美」とされますが,正直なところ,

「私なんて,あの先生みたいにはなれない」と言う方がよほど簡単だと思います。

 
もちろん,謙虚さは大切です。

もちろん,「傲慢」からそう言っているのでもありません。

自信なんてありません。

 
また,違う人間ですから,個性にも能力にも大きな違いがあります。

それももちろん承知の上です。

 
それでも,「ならなくてはならない」と考えざるをえません。

(決して嫌々,あるいは無理して「ならなきゃ!」と

考えているのではありません!

そうではなく,何といえばいいのでしょうか…

そう考えるのが自然だと感じる,というニュアンスです。

すでに述べたように,私はもう頑張れない生き方を選んでいるので(笑))

 
だって,何のために私はその「先生」と出会ったのでしょうか。

 
その「先生」は,何のために私にたくさんのものを授けてくれたのでしょうか。

 
私が何をしたらその「先生」は一番喜んでくれるのでしょうか。

 
「私は先生みたいになれません」と謙遜?あるいは臆することよりも,

いただいたものをより多くの人とシェアしていくことのためだと思うのです。

 
そして,私の「先生」は,それを何よりも喜んでくださると思うのです。

「先生」を尊敬しているからこそ,私は今こう考えます。

 
実際になれるかどうかは,ここでは第一の問題ではありません。

「ならなくてはならない」と感じて,最善を尽くすことに意味があると思うからです。

 
すばらしい「先生」に学んだのなら,giveしていただいたのなら,

私はそれを別の相手にgive backして行かなければならない。

そして,それが自ずと自分の為すべき役割となるのだと思います。

 
同時に,私がそうすることによってあの方々はきっと喜んでくださる

と思うと,また自分の「先生」の確信は増すのです。

そしてまた,こう考えられること自体すでに,

「先生」からいただいた恩恵であることに気づかされるのです。

 
 
(3)に続く

自分の「先生」を見つける(1) 「先生」の予感と確信

みなさんには,誇りに思う「先生」がいますか?

 
私がここで言う「先生」というのは,職業としての先生(教師,コーチ等々)に限りません。

(自分自身が長くこの職業をしていたことを振り返ると,ちょっと苦笑いが出そうになる話題ですが(笑))

 
そうではなく,私はこの人から本当に多くを学んだ/学んでいる,

さらには,学ぶことになるだろうと確信できる,という相手です。

 
つまり,あなたが「この人は私の先生だ」と思えれば,

その人はまぎれもなく自分にとって「先生」であるということです。

 
私には、心から尊敬できる自慢の「先生」が何人もいます。

中でもyogaを通じて出会った先生方は,私にとって本当にすばらしいgiftです。

 
特にこの3年は,「先生」に会うために海外へも出かけることが多くなりました。

これからも,すでにお会いしている方だけでなく,

まだ実際にお会いしたことはないけれど,この方はきっと私にとって,

出会うべきすばらしい「先生」だと感じる相手に会いに,

何度も出かけることになると思います。

 
「この人は私の先生だ」と思える方に出会えることに,

私はいつも心から感謝と幸せを覚えます。

 
教えてもらったことやしてもらったことにというよりも、

むしろそういう方がどこかに存在してくれていることを

思い出すだけで心があたたかくなります。

 
それは,依存とは全く違います。

それは,シンプルな喜び,誇り,希望,エネルギーです!

 
これから、yogaと旅を通じて出会って来た自分の「先生」のこと,

そして,そのことを通じて思うことを,いくつか述べて行きます。

 
 
1. 「先生」の予感と確信

 
私は、2015年3~4月にバリで、イギリス人の先生が主催するトレーニングを受けていました。

お会いするのは初めての先生でしたが、ネットで写真を見たときから、

この先生は間違いない!と予感していました。

実際、本当にすばらしい方で、この「先生」に学べてとても幸せです。

 
私にはまだ他にも、写真しか見たことがないけれど、

近くこの方にお会いしなくては!と感じている「先生」などもいます。

 
…でも、これってよく考えたら変ですよね。

会ってもいないのに,間違いない、とか、会わなくては、とか(笑)

 
それから、何というか、この方は自分とは違う次元を生きているのだろうな…

と感じるような、すごい「先生」もいらっしゃいます。

(しかし,同時に,その次元と私たちの次元を軽やかに

行き来している感じがまたすごいなあと感じます。

こういう「先生」方に,これからもっとお会いして行きたいと

心から思います。)

 
…でも、これもよく考えたら変でしょう?

自分は辿り着いてないのに、「違う次元」なんて分かりようがないはずですから。

なのに何となくそう感じるわけです。

 
そして、何だかよくわからないけど、この「先生」は間違いないぞ、

という予感に従って、そういう「先生」の後をヨチヨチ歩きで追い始めるのです。

 
そのうちに、よくわからないながらもちょっとずつ見えてくるものがあって、

やがて予感は確信に変わって行くのです。

(それにどれほど時間がかかるかには大きな幅があると思いますが。)

 
ただし、すばらしい/すごい方が誰でも「先生」かというと、そうではありません。

 
私がここでお話ししている「先生」というのは、あくまでも

「自分の先生」と感じられるか、自分と何かそういう強いご縁というか、

深いつながりのようなものを感じられるかどうかがポイントだと思うのです。

 
ですから、たった一瞬出会っただけでも、あるいは実際に一度も会わなくても「自分の先生」になり得るし、

また、カレー職人でも主婦でも「自分の先生」になり得ます。

 
要は、恋愛と同じようなものだと思うのです。

 
「世間」が認めようが認めまいが、経験が有ろうが無かろうが、

「自分の先生」はその人なのです。

 
こういうすばらしい「自分の先生」に出会い、そう確信するには…

まず根拠のない予感を信じることから。

 
何とも不思議ですが,同時に何とも美しいパラドックス。

こうして,自分の「先生」を探す旅は続くのです。

 
 
ついしん:
この辺りの話を興味深く感じた方は、内田樹さんの『先生はえらい』をどうぞ。

 
 
(2)に続く

ガネーシャ1〜障害を取り除く神( the Remover of Obstacles )

私はバリが大好きです。

バリに行くと,さまざまなお宅の玄関に象の像,いえ,象の頭と子どもの身体を持った神様,ガネーシャの像が見受けられます。

しかし,そもそもガネーシャは
なぜ頭が象なんでしょうか?

彼は,ヒンドゥー教で三大神といわれる
シヴァの奥さん,パールヴァティの子です。
 
 
あるとき,パールヴァティは沐浴をしていました。

そこに,シヴァが修行から帰って来ました。
(彼はyogiなので,ヒマラヤで長いこと瞑想を深めたりするのです。)

久しぶりの帰宅。
さっそく奥さんに会おうとすると…

見知らぬ子ども=ガネーシャがドアの前に立っています。

彼が入ろうとすると,

「パールヴァティ様は沐浴中です。その間は,誰も入れないように,と言われていますので,ここはお通しできません。」

と,その子どもはシヴァの行く手を阻みました。

シヴァは大変怒り、生意気な子どもの首を切り落としました。

沐浴から出てきたパールヴァティはそれを見て唖然…

何ということでしょう,自分の大切な子がエラいことに…

事情を初めて知ったシヴァは,そりゃあ,悪いことをとした、では新しい首を探さないとね。

というわけで,かわりの首を見つけてくるように,とつかいを出し,持ち帰って来た象の首を引っ付けた…というお話です。

ひどい…(笑)

でもまあ,ここから, なぜガネーシャが玄関にまつられるのかがわかるはず。

それは,彼が「門番」(gate keeper)だからですね。彼は,入り口を守る神です。
 
 
そしてまた,障害物を取り除く神(remover of obstacles)とも考えられています。

手に持つ斧のような武器は
彼のそうした力のシンボルです。

だから,ヒンドゥーの人々は,
どうぞ私たちの苦難を取り除いてください,と,ガネーシャのご加護をお祈りするわけです。

さて,では, あなたにとっての「障害物」は
何ですか?

人間関係だったり,仕事だったり,健康面だったり…

私たちの人生には,くり返しくり返し障害物が立ちはだかりますよね。

一つ越えても,また次がやって来る。
いつでもそのくり返しです。

私自身にも,いつも障害物があります。
過去も,今も。
 
 
でも,私たちにはなぜ次々に障害物が与えられるのでしょうか?

それは,私たちにとってそれが必要だから。

それを通して学ぶことがあり,
それを通して自らの強さを引き出し,
それを通して自己探究を深められるから。

実は,この障害物自体,
ガネーシャからの贈り物でもあります。

というか,障害物の仮面をかぶって私たちの目の前にガネーシャが顕れているわけです。

ガネーシャは,障害物を取り除く力を持っていますが,
同時に,障害物を与える力も持っていると言われるのです。

障害物を与えられるのは,
それを私たちが乗り越えられるから。

私たちの内側にはいつもまだ拓いていない
可能性が眠っています。

障害物を通じて,いつでもその可能性を
拓いて行けること,乗り越えられるからこそ与えられていることを,いつでも覚えておきます。

そして,信じて一つ一つを乗り越えて行きます。

私たちの内側の本質に近づいて行くために。

私たち一人一人にいつもガネーシャのご加護がありますように。

【追伸】

nidaの玄関を入ってすぐよく見えるところにも,ガネーシャを掲げています。

[memo] peak pose

for basic: eka pada raja kapotanasana 2 + bekasana or L-shaped handstand

for advanced: ardhachandra chapasana